川と共に歩んだ五霞の軌跡(概要)

 利根川、江戸川、中川、権現堂川の四河川に周囲を囲まれた五霞町は、これらの川から多大な恩恵を享受してきましたが、町の歴史を振り返ると、私たちは河川がもたらす自然の脅威とたえず背中合わせの生活を強いられてきたといえ、そこには先人たちの川との苦闘が力強く刻み込まれています。
 
 この地を潤して豊かな水田地帯を築いた川は、江戸時代になると輸送・交通手段としても大きな役割を果たすようになります。とりわけ、利根川水系の水運は発達し、流域の地域だけでなく信州や越後、さらには銚子を経由して東北地方の物資までが江戸へと運ばれていました。三百俵積み、五百俵積みの高瀬舟が川面を行き来し、要所要所には河岸がつくられます。五霞町の江川にも廻船問屋がありましたが、河岸として栄えたのは境町や関宿町などで、関宿には江戸に入る荷物や人を監視するための関所がおかれていました。

 川はこうした物資の輸送のほか、人々の交通手段としても利用され、利根川には明治の中頃まで東京からの蒸気船が就航していました。また町内には、利根川の渡船場が三か所あり、私たちの暮らしに重要な役割を果たしていました。

 しかし、こうした河川もひとたび牙をむくと、大きな被害を私たちにもたらします。そのため、江戸時代から大規模な治水工事が何度も行われてきましたが、明治以降も人々は度々水害に苦しめられてきました(年表参照)。昭和22年のキャスリン台風による大洪水を最後に大きな水害は発生していませんが、いつ起こるかわからない破堤等による大災害を回避するため、スーパー堤防の建設など徹底した治水事業が計画されています。

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  • 【ID】P-83
  • 2014年8月14日
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