五霞町は、四方をすべて川に囲まれた地形にあるため、昔から幾度もの水害による被害を受けてきました。中でも大きな河川である利根川では、五霞町はもとより流域の多くの市町村が力を合わせ懸命な治水事業を行ってきました。
古い記録を見ると、元和7年(1621年)に関東代官であった伊那半十郎忠治が、埼玉県北川辺町から古河市付近にかけて約8Kmの川をつくり水を分流させました。また、これとは別に水海村(現在の古河市(旧総和町))付近から約8Kmの川をつくり、利根川と渡良瀬川の水を常陸川に分流させる工事を行い、これが赤堀川(現在の利根川の一部)です。
しかし、常陸川の流れが悪かったために赤堀川の流れも悪く、現在の江川地区周辺の低地に水が溜まるようになってしまいました。
五霞村の初代村長であった石塚房次郎は、各地の治水の現地視察を行い、排水機の動力で水を排水することに着目し、江川に排水機場を設置することにしました。排水機は、明治37年に東京の石川島造船所で53馬力のものが造られ、2万円の費用がかかっています。
その後、元栗橋と大下(幸主と土与部の間)にも村の事業で排水機場が設けられ、江川に設けられた排水機場は、五霞排水株式会社となりました。
大正時代に入ると大規模な河川改修工事が山王地区で行われていますが、完全な治水事業の実施にはさらに長い年月が必要でした。
大正14年頃には、旧権現堂川が締め切られ、水路を使って埼玉の庄内古川(現在の中川)に水を流す方法がとられました。そのため、庄内悪水路普通水利組合に加入することになりましたが、その結果、2か所の排水機場が不要となり、湿地や池沼の干拓が行われ、新しい耕地が生まれました。
記録に残っている大水害のひとつに、明治43年の大水害があります。このときには、土砂降りの雨が一週間も続き、江川地区で堤防が決壊し大洪水が発生しています。その後、大雨や長雨があると洪水が発生し、水害に苦しめられました。
また関東大震災の時にも堤防が崩壊しましたが、人々の必死の努力により大洪水の被害はまぬがれました。しかし、昭和10年の大水害では、明治43年の水位を超える7.99メートルもの出水に見まわれ、大きな被害を受けています。
戦後も大きな洪水に見まわれています。復興もままならない昭和22~24年にかけてキャスリン、アイオン、キティの台風に襲われ、水害を被っています。
このうち、昭和22年のキャスリン台風では、利根川が埼玉県栗橋町で決壊したことを基因に、埼玉県東村(現在の大利根町)で450メートルにわたって堤防が流失し、大水害が発生しました。このときの出水は埼玉県や五霞町はもとより、東京まで水が押し寄せていきました。
その後、利根川では2回の堤防改修工事が行われ、懸命な治水への努力が行われています。国や県でも堤防工事には多額の費用をかけ、安全な基盤づくりを進めてきました。
こうした整備に加えて、現在は、より強固な堤防をつくるとともに河川敷を緑地や公園として利用していく、スーパー堤防(高規格堤防)が考えられています。
こうした、郷土での水との闘いの記録は、「水と闘い築いた里に、残る尊い自立の気風」という一節が五霞東小学校の校歌に記されているように、五霞町に暮らす私たちが決して忘れてはならない史実として、今に伝えられています。
関宿棒出しの風景 |
多くの人馬で賑わう舟着き場 |
関宿棒出しの風景2 |
河岸問屋の送り状 |
明治43年の利根川水害 |
利根川改修工事で 人力で押していたトロッコ |
大正2年から始まった 利根川堤防の改修工事 |
大正時代の排水路工事 |
キャスリン台風による水害 (昭和22年) |
権現堂調節池の建設工事 |
利根川治水工事の完成に 伴い建立された記念碑 (中の島公園内) |
関宿水閘門 水位の低い江戸川から利根川に 船を乗り入れるための施設で、 水門により仕切られた区間に 船を入れ、水位を上げてから船を 動かす仕組みになっていました。 |