「赤堀川」という名称はご存じですか。赤堀川は利根川川筋を切り広げた河川の一部分です。関東ローム層を切り広げたため赤い水が流れたことから、名づけられたといわれています。
この赤堀川の切り広げによって、五霞が水害におそわれ悩まされる大きな原因となりました。
この赤堀川については、明治41年(1908年)に当時栗橋町在住の学者根岸門蔵が「利根川治水考」を紹介されたのがはじまりです。
根岸門蔵が紹介した文書は、通称「川妻文書」と呼ばれ、もともと川妻の藤沼家に伝わっていたものです。しかし、その後「川妻文書」の所在は不明となっています。
今回、幸主の小澤家文書を整理・精査している段階で、「川妻文書」の一部が写された内容が発見されました。この文書を発見したのは、吉田優五霞町町史編さん専門委員長です。表題のない願書のつづりにとじこめられていました。なぜ小澤家の文書にとじこめられていたのでしょうか。考えられることは、赤堀川がつくられ利根川の水が120キロメートル先の銚子口に落とされたことが、五霞の村々にとって大変な事件だったからです。それまで五霞の北側は、古河と台地でつながっており、利根川の水は江戸の海に自然にすばやく流れ、水による被害も少かったのです。
ところが元和7年(1621年)に赤堀川がつくられたことが、五霞の人々は水害に悩まされることになったので、この事実を後世まで伝えようとしなかったからではないでしょうか。
この発見は、利根川研究史上に一石を投ずることとなる大発見といっても過言ではないでしょうか。
(文書 五霞町町史編さん専門委員 佐々木 守氏)
※原文書は、町史編さん中であり、また、保存状態が極めて悪いので、公開は予定しておりません。
(広報ごか2008年12月号5ぺージに掲載)
まぼろしの川妻文書